ようこそ、太田尾公民館のホームページへ!! 長崎県西海市大島町太田尾地区の公民館活動などを紹介しています。

太田尾の歴史

おおだおの歴史(浅田時夫)

 私たちの先祖は外海町神浦から移住してきた。神浦流れだと聞かされてきました。

 今回「ふるさとだより」第25号記念号発刊に当たり太田尾の歴史と歩みを調べてみることにしました。神浦のどの地区から何年頃・何世帯・何名移住してきたのか知りたいと思って資料を調べようと思ってさがしたが、太田尾地区には何の記録も残されてなく、又、昔を知った古老の方々も亡くなられてお聞きするすべもない状態です。

 参考資料として長崎県史、大村史談、大島町郷村記等に僅かに記されているだけで、それも大島町(昔は黒瀬村と大嶋村の二村)の事もほんの僅かな記録しかなく、まして太田尾郷の事については皆無といってよい状態です。そのような状態の中で、先年亡くなられた楠本喜右衛門氏の書き残された大村藩の御領牧場「太田尾牧場」(通称馬垣)のことについて詳しく記されており大変参考になりました。

 太田尾の牧場は寛永16年(1639年)創設以来178年間に寺島、松島に移動又は再興を繰り返して、文化14年(1817年)に廃止になっております。

 神浦から移住したのは太田尾牧場が廃止されたあとの文政等中(1818~1829等)である。郷村記(大嶋村)に「新地は大嶋、黒瀬の両村にあり、文政等中、神浦より百姓共移住して田畠を開きその後民家次第に殖え今寵145軒(内85軒大嶋、内60軒黒瀬となる。)

 新地は大嶋村の中戸、太田尾、塔尾、塩田の4部落、黒瀬村の馬込、徳万、野田の3部落、計7部落をいい「いっき」地とも呼んでいる。

 文政4年(1821年)大嶋村の最高峰である、百合岳(193㍍)に自分達の鎮守として神体板鏡を祀り文政11年(1828年)には、琴平神社を建立するに至った。と記されてあります。

 実際にその根拠となるものがないかと思って、太田尾墓地のお墓の法名塔を調べたり、昭和13年に太田尾郷民が120年記念として建立した無名墓等から推測して、約170~160年ぐらい前に移住してきたのではないかと思われます。

 因みに浅田家の太田尾における一番の先祖である浅田種蔵じいさんの場合、明治13年3月10日(1880年)に66才で亡くなっており歴をめくって調べてみると、文化11年(1814年)生まれであり、現在生存したと仮定したら177才になります。

 その他のお墓を調べても楠本家の方を除いて177才以下の方々のようです。

 移住後の生活については知る由もなく、何故に神浦をはなれて移住してきたのか、一説では隠れキリシタンで宗教弾圧で逃れてきたのではないかとも言われているが、それも確かな証拠はなく、太田尾教会沿革史で知るところによれば塩田を中心に家御堂でお参りをした事などがあっていたようである。

 又、私たちの幼い頃の各家の佛壇は二段になっており今の佛教の佛壇(仏間)とはちがっていたように思われます。更に大村藩から取締り役人(武士)が居て踏絵が行われたとの話も残っているようです。

 移住後の先祖たちは太田尾の傾斜地で平坦地の少ない痩地の段々畑を開墾して生計を立てたと思われ、大変な苦労が想像されます。その後の生活においても交通も不便で経済、文化等にも恵まれず、農耕をしたり、漁業(磯)をしたり、或いは炭鉱その他への出稼ぎに行ったりの生活ではなかったかと思われます。

 衣、食、住においても、わずかな海を隔てた地方(西海町、大瀬戸町等)とをくらべても大変な差があり、着るものも粗末で、食べ物は芋が常食であり、米飯など貴重な食物とされ、めったに口には入らず、住まいも土と石を混ぜた壁の(ねりべ)小屋での生活ではなかったかと思われます。又、病気もその他あらゆる面での苦労は並大抵ではなかった事と推測されます。このような先人たちの苦労を振り返って今の恵まれた生活、ふれあいのある素晴らしい太田尾の基礎を築いてくださった、ご先祖様や先輩の方々への感謝の気持ちを忘れてはならないと思います。今の幸せと繁栄は先人達の並々ならぬ苦労と努力の賜であり、先人から受け継いだこの良き伝統を更に向上発展させて子孫、後輩に引き継ぐ責任の重さを痛感いたしております。「ふるさとだより」25号の記念号を機に思いを新たにして、太田尾の皆さんも又、故郷を離れて他郷で頑張っておられる皆さんも一体となって心と力を合わせて、わが愛するふるさと太田尾の発展のために頑張りましょう。

太田尾何でも物知り 大島町と太田尾の歴史と歩み 浅田時夫

追加 今村

年号西暦関係事項
慶長5年1600年・大村藩領となる。
寛永12年1635年・21代藩主大村純信公領内を検地
寛永16年1639年・太田尾に牧場を創設する(馬垣) 
・松島と太田尾との移動を数回繰り返し、文化14年(1817年)に廃止する。
文政年中1818~
1829年
・神浦より移住 
・新地は、大嶋、黒瀬の両村にあり(計7部落)145軒
・大嶋村(中戸、太田尾、塔尾、塩田)85軒 
・黒瀬村(馬込、徳万、野田)60軒
文政11年1828年・百合岳(193m)の鎮守として金比羅社(琴平神社)を建立する。
嘉永5年1852年・検地
明治4年1871年・第大中区第4小区面高戸長役場に編入される。
明治7年1874年・黒瀬小学校創立
明治11年1878年・大島村と黒瀬村を合併黒瀬村とする。
明治19年1886年・黒瀬簡易小学校太田尾分校開設
明治25年1892年・黒瀬尋常小学校と改称
大正4年1915年・黒瀬高等科併設
大正6年1917年・大島炭鉱開坑(大正9年休止)
昭和3年1928年・太田尾分校焼失 新築(一時現在の田端キヨ子さん宅の位置で仮授業)
昭和4年1929年・太田尾教会堂の落成
昭和10年1935年・松島炭鉱(株)大島鉱業所開坑
昭和13年1938年・太田尾無名墓(52体合祀)建立(120年記念として太田尾郷民建立)
昭和16年1941年・黒瀬村黒瀬国民学校と改称
昭和22年1947年・黒瀬村立黒瀬小学校と改称し、高等科は黒瀬中学校編入
昭和24年1949年・町制施行、黒瀬町となる。
・町人口は、13,334人。
・(7月)大島町と町名を変更する。
昭和25年1950年・県立西彼杵高校大島分校の設置認可される。
昭和26年1951年・太田尾分校増築、運動場拡張 
・大島町立西小学校と改称
昭和27年1952年・中戸橋完成
昭和29年1954年・県立大崎高校校舎完成
昭和31年1956年太田尾保育園開設
昭和32年1957年・大島~崎戸間バス乗り入れ実現
昭和33年1958年・間瀬~大島間バス開通
昭和34年1959年・定期バスの町内一周運行開始 
・役場新庁舎落成
・大島の人口は、19,453人に達する。
昭和35年1960年・中戸橋架替工事完了 
・鉱害による太田尾海岸及び水田の埋没が始まる。
昭和39年1964年・馬込~太田和間航送船就航
昭和43年1968年・西面地区簡易水道給水開始
昭和44年1969年・部落運動会の始まり
昭和45年1970年・太田尾分校廃止 
・松島炭鉱大島鉱業所が操業を停止(35年間にわたる炭鉱の歴史を閉じる) 
・大島の人口は、11,197人となる。
ふるさとだよりの創刊
昭和47年1972年・大阪造船所、大島進出を決定
・大島の人口は、人口5,942人となる。
昭和48年1973年・(株)大島造船所設立される。 
・海底水道完成
昭和49年1974年・西小学校創立100周年記念式典挙行
昭和50年1975年・敬老文化祭の始まり 
・大島造船所竣工
・大島の人口は、8,359人
昭和51年1976年・公民館便りの創刊
昭和52年1977年・町立東、西中学校が統合し、「大島中学校」として発足
新春マラソン大会の始まり
昭和59年1984年・西面体育館が落成 
・特別養護老人ホーム「大崎やすらぎ荘」開設
昭和60年1985年・大島総合公園野球場が完成
昭和63年1988年・寺島大橋が開通
・大島の人口は、6,873人
平成4年1992年・大島若人の森陸上競技場が完成
平成5年1993年・長崎大島トライアスロン大会が開催される。
・大島の人口は、6,359人
平成11年1999年・11月11日11時11分11秒に大島大橋が開通
平成17年2005年・西彼・西海・大島・崎戸・大瀬戸の5町が合併し西海市となる。
平成22年2010年・ペーロン大会2連覇 ・バレーボール大会総合3連覇、女子3連覇 ・大島町運動会4連覇 を達成
平成23年2011年・大島大橋の通行料無料化 ・「西海市立病院」が「福医会さいかい病院」に、「大崎やすらぎ荘」が「特別養護老人ホームさいかい」に名称を変え民営化される。
平成26年2014年・ペーロン大会6連覇 ・バレーボール大会総合2連覇、女子7連覇 ・大島町運動会3連覇 を達成

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